独立への道


1996年、何気なく訪れた賀茂村に工房を建てて軌道にのせるまでの記録です。

1: 自分達の工房が欲しい!!
1996年。工房に入社して4年を過ぎようとしていた。
いろいろ不便もあったけど(島だからね。)、能登島の生活はとても楽しかった。
近くの無人島に2人でボートを漕いで行ったり、クラゲやエイを眺めたり、昼休みの海水浴、火祭り、七尾の花火、仲の良いスタッフ、、、。
でも、仕事となると別。毎日毎日汗みどろで必死になって売れる商品を考え、作り出す日々。そして、講座生への吹きガラスの指導、、、。
もうへとへとだった私達は、自然に独立に目を向けていました。

でもお金もない、担保もない、親にも頼めない、自分の作品を置いてくれる店も持たないような全く無名のふたり。誰がお金貸してくれるの?

あれ?第一、土地がないじゃないの!

2: 賀茂村との出合い
そんな訳で、やっぱり工房でヒ-ヒ-働いていたある日、『伊豆でガラスの関係者を集めて、 ミーティングがあるんだって。旅費も少し出るって。久しぶりに旅行しよう!』と友達から電話。
静岡県の出身でありながら、賀茂村なる村を知りませんでした。
山道を登ったり、下ったり、くねくね車を走らせていると

いきなりド-ン!と真っ青な海!感動、、、。
(でも、そこはまだ隣町だったんだけどね、、、。)

それを見て何だか胸騒ぎがするのです。
私の愛する第2の故郷、ベネツィアを彷佛とさせる海のベターッとした風景。

そして乗り込んだ賀茂村。何だか理想的な環境です。応対してくれた役場の方々、出会った人々、みんな暖かい。(こんな所でのんびり仕事ができたらなあ。)
勝手に心に浮かんで来るのです。
行政主催の『見て聞いて語ってツアー』は、何だか訳がわからないまま進み、会議は皆好きな事を言って終わりました。
でも、賀茂村が昔からガラス原料の産出地だったと教えられ、珪石の採掘場も見学させてもらいました。
そして翌年には第3セクターで現代ガラス美術館をオープンさせる程、ガラスに対して理解がある村である事を知り、(もうここしかないだろう。)と私達は心に決めたのでした。

しかし、先立つものが、、、。何とか、村の土地だけでも貸してもらえないだろうか。
とにかく、ここに住みたいという気持ちを計画書に残し、私達は能登へ帰りました。


3: ブラボー!過疎地、賀茂村!
とにかくお金を作らなきゃと、公的融資の本を読みあさり、どれだけの資金が必要なのか経費などの金額を計算し、他の工房で情報収集をしたりと忙しくなりました。
私は自動車免許を取りに教習所に通いはじめました。

でも、お金ホントに借りられるの?

『5年前ならねぇ。バブルの頃ならねぇ。』と聞く人、聞く人、答えます。
(損したなあ。バブル期は、ずっと学生だったもの、、、。ちぇ。)
そんな時、私を子供の頃から可愛がってくれてる母の友人の社長さんに、弱音を吐いたら怒られました。

『最初から失敗すると思っているなら失敗だ。そんなのやめちまえ!』

そうだよね、、、根が単純な私は、それでまたフル稼働。でもお金、、、。
と思っていたら、役場から電話。村が、若者定住促進の融資制度を作ってくれると言うのです。すごい!賀茂村!ブラボー過疎地!

4: 見えない渦
それからの流れは、見えない何か大きなうずに巻き込まれて、あれよあれよと言う間にすべてが進んでいきました。
賀茂村へ行ってみると、いくつか土地を見せてくれました。
でも、どこも一癖ある。ゴミ捨て場だったり、畑だったり、今は企業に貸していたり、、、。
「とどのつまり、いったいどこがすぐに使える場所ですか?」で、決まったのがこの場所。
元、村のテニスコートで水道も電気も来てる。いいじゃない?(その後、ここは冬になると大変日当たりが悪く、未知の吸血生物『ブヨ』の巣窟で1分も外にいられない為、だれも寄り付かない所だった事を知る。)

3月に初めて賀茂村に来て、9月には引っ越してきました。
役場の担当の方の迅速な働きかけと、OKを出して下さった、役場と議会関係者に心から感謝、、、。

引っ越し当日は台風の日でした。大変な思いで13時間かけて走って来ました。
一夜明け台風一過、抜けるような空です。夕日の名所、黄金崎に行きました。
目が開けられない程輝く夕日、右手には青い富士山。大きく息を吸って、空を見上げると、そこには虹のアーチが架かっていました。

5: 工房建設へ
さて、やって来た賀茂村。1軒屋を借りました。まず工房を建てなくちゃ。
廃屋みたいのないのかなあ。でも、土地や家をみんな売りたがらないんだって。
貸しても良いけど、盆暮れには帰ってくるし、、、。この案はボツ。

建物ってお金かかるんだね。
フ-ン、、、。ガレージキットかあ。かっこいいなあ。
400万円ぐらいで手ごろだけど、屋根が低すぎるんだよナ。ボツ。
(窯を京都の大先輩の燃費の安い窯にしようと決めていたので、その窯の煙突が8メートルあって、屋根は高ければ高い方が良いと勧められていたのでした。)

鉄骨のプレハブみたいなのは?行った会社が悪かったのか、高かった。
第一夏暑くて、冬寒い。ただでさえ暑いんだから、仕事にならないよね。ボツ。

結局、村の製材所で頼む事に。約1000万円の大仕事。あっさり建つものと思っていたら、商売をする建物には『建築確認』なるものが必要らしい。
それには、とっても高い申請料が必要らしい。またお金かかるの?
役場の方もいろいろ調べてくれたけど、ラチが開かないから下田の行政センターまで連れていってくれました。どうやら、バックれる事もできるらしい。
でもコソコソするのは嫌だから、25万円程かけて申請しました。
その関係で、室内の壁やむき出しの梁などは、全て防炎のボードを貼らなくてはならなくなり、涼しい風が通るはずだった天井付近は全部塞がれてしまいました。

6: 工房完成!でも知らない規則ばっか!
こうしてファロは1997年、総面積129.18平米、6メートルの高さの大きな木造建築で完成。壁はレンガ色の予定が真っ赤に塗られていました。

良かった良かったと一息ついていたら、今度は『消防法』なるものもあるらしい。
でも、消防署でも訳わからないって感触。どーでもいいらしい。
灯油のタンクの容量が大きいので、その下にこぼれた時の為にブロックで受けを作ったほうが良いと言われてそれっきり。その土地土地で、いろいろあるんだな。

今度は電気。動力をひきたいんだけど、これは機械がそこに全部設置されていないとひいてもらえないんだって。慌てて機械を買いに走りました。
中古のコンプレッサーと手作りの電気炉。それから、中古の両軸グラインダー。
そしてまた中古のろくろ(10000円)。これで底ずり用の平板を作りました。
両軸は15000円で買い、乗せる足をアングルで作り、木盤と毛ブラシを買って付けました。
でも速度が合わなかったので、プーリーを買って速度を調節できるようにしました。(これが高くて、7万円位しました。)
先に溶接機を使いたかったので、最初に動力をひいたんだけど、使わなくても使っても基本料金(7000円位)がかかってくるのですが、結局作りはじめるのが遅くて、無駄な料金を払いました。反省、、、。

7: 納得いかないぞ!こんな窯じゃ。
さて、いよいよ窯です。

ガラスの溶解炉は、とても高いのです。築炉まで頼めば、大変な額でしょう。
なのに10年ぐらいでボロボロです。壊れたら、作った業者に来てもらわなくてはなりません。出張費や宿泊費も請求されるでしょう。
それだったら、自分で苦労してでも作れば、トラブルの時に対処できます。

さらにもっと引っ掛かっていたのは、ランニングコストの問題です。
現在販売されている手ごろな溶解炉は、ほとんどガスが燃料となっています。
業者の中にはできるだけ簡単に作るために、高温に耐えられる炉材だけをいきなり使い、蓄熱等を無視した窯を販売しています。
でも、高温に耐えられる炉材は値が張ります。必然的に溶解炉の値段は高くなります。内部の雰囲気や、状態に合った適正な炉材を必要量使わなければせっかくの熱が、どんどん逃げていってしまい窯の温度が保てません。
だから、ガスを出して火力を強くする、そうし続けなくてはならない。
作業中のコストは考えられていないのです。そんな窯が平気で売られています。

8: 惚れたぜ!欲しかったのはこれ!
窯は京都のガラス作家の方が作った、灯油を燃料とする窯に決めていました。
そのため、五木田は京都まで何度となく通い、『燃焼とはなんぞや?』から教えてもらいにいきました。彼は嫌な顔ひとつせず、忙しい中熱心に教えて下さいました。そうした中から、私達は(この窯でなら、
生活していけるかもしれない。)という希望が持てました。

彼は、長い間の試行錯誤の結果この窯に辿り着き、そしてやる気のある人には何の見返りも要求せず、あっさりと設計図をくれる人です。
そしてみんなでより良い窯を作っていこうと、少しづつアイデアを盛り込んで試させています。現在、関西方面を中心に5軒以上はあるでしょうか?
だからみんなの窯は少しづつ違って、常に新しいデータが彼に届けられます。

さらにすばらしいのは彼の人柄だけではなく、この窯の燃費の良さです。
灯油で1400℃近くまで熱を上げると言うと、皆さんびっくりされますがこの窯はきれいな炎で無駄なく燃焼させ、熱はできるだけ内部で使い切って煙突から出す。という窯なのです。

私達の窯の燃費は、だいたい一ヶ月70000円ぐらいです。他のガスの工房に聞くとその倍ぐらいはかかっているみたいです。
やりたくもない体験教室を、ガス代捻出の為にやっている工房がたくさんあります。燃えて無くなってしまう燃料代の為に、倍働いて売らなくてはならないのなら!窯のせいで無駄が出て、その穴埋めを労力で補わなくては
ならないのなら!
どちらを選ぶかは、おのずと見えてくるはずです。


9:  で、ホントのとこいくらかかるの?
あとは、鋼材代。計器類。材料費は200万円もあれば十分でした。
しっかりと設計図を書き、内部のどの部分が何度になるか計算し、適正な耐火煉瓦を必要量だけ買ったから炉材にはあんまりお金はかかりませんでした。
それ以前に、いろんな所から見積もりをもらって安い業者を探し出しておいたのも、安かった理由です。(時間と電話代がかかりますけどね、、、。)
炉材や、計器類などの価格は、仲間内で公開します。たったひとつのパーツでも、みんなでリサーチして1番安い所からみんなで買います。
私達の暗黙の決まり事です。
そうやって適性価格を探すのです。そうでない業者がすぐにわかります。
あと気がついたのは、同じ企業内でも京都営業所と東京営業所の値段が、必ずしも同じではないと言うことです。やっぱり、関西だから安いのかな?

もちろん安さばかりにこだわる訳ではありません。
例えばある会社の出している、コレコレという商品が欲しい場合は、一番安い所を探しますが、似たような同等品がある場合ならより良いものを皆で探しますし、もっと言うとちょっとぐらい高くても、こちらの質問にていねいに答えてくる、そんな業者さんなら長く付き合えますし、安心です。

10: お金じゃ買えない何か、、、
忘れてましたが、1年半かかった築炉の期間の生活費は別です。
私はその間、近所のホテルで皿洗いのバイトをしたり、ガラスアクセサリーを作って生活費を作りました。村の近所の人達がいろんな野菜をくれたり、魚を持って来てくれたりしたのもとてもありがたかったです。

『そんなに時間がかかるんなら、買ったほうが安かったんじゃないの?』
と、言われた事も何度かありました。でも、お金じゃないんです。
五木田は尊敬する先輩に近づきたかったんです。やってみたかったんです。
そんな気持ちを知らないで、『ばかじゃないの?』みたいなニュアンスの言葉を言って欲しくなかったです。悲しかった。

とは言え、やった事もない設計は五木田にはキツかったみたいです。
熱量計算や、炉材の体積を出したり、煉瓦が何個必要か計算したり、、、。
あっという間に白髪が増えたのもこの頃。3ヶ月かけて設計し、炉材の注文。
でも、GWにかかってしまい、納期が2ヶ月以上かかりました。
慣れない溶接ながらも、五木田がたった1人で溶解炉、焼き戻し窯、徐冷炉と3つの窯を作りました。

そして五木田には、知識と経験、それからたくさんの仲間が手に入ったのです。
もちろん彼の知識には、欠けているものがまだたくさんあります。
それはこれから増やそうと思えば、いくらでも勉強できるものです。
でも、すばらしい人達との出会いは、本を読んでも見つかりません。
私達はお金では買えないものを、この窯から得たのです。


11: オープン!でも何か違う、、、
1998年6月12日、五木田は自分が作ったペーパーウエイトと太陽の光で火をおこし、その火をバーナーに点火しました。
(私が見ていないうちにです!ケチ!)
そして、熱上げ、チャージ。6月22日、ガラスが溶けているのを見て初めて(出来たんだ!)と実感しました。

それからは、朝早くから夜7時頃までガンガン吹いて吹いて吹きまくりました。
『少しでも休むと灯油がもったいない。』それが私達の口癖のようでした。
しかし、溢れかえったガラス達を見て気が付いたのです。

どーすんのこれ。どこが買ってくれるの?

販売先も十分に持っていないのに、能登島で作っていたような『質より量のガラス』がそこにありました。

好きなだけ作って自己満足していただけ。
作っていても、灯油を無駄にしていたのです。

それからは、(独立したらもっと良いものが作れるのに、、、。)と思っていたあの頃を思い出し、『必要とされるガラス製品』を考えるようになりました。
ただ面白いだけではなく、食器や花入れだったらしっかりと実用的なガラス。
飾られるのではなくて使われて、下手したら割れて、でもまたお客さまが(買い足したい。)と思うようなガラス。自分はまだまだだと思うけど、いつかそういうものが作れるようになりたい。

12: とても手のかかる窯
貧乏暇なし。1度火を入れたら何ヶ月も火を止められないので、働き詰め。
夢のような窯も、実際はこまめなメンテナンスと微調整が必要でした。
ガスの窯のように、管理は機械任せというわけにはいかず、調子が良い日と悪い日があり、悪い日になると五木田は仕事にならない程イライラします。
子供が1人増えたような感覚です。手間がかかるのです。

うわさを聞き付けて、見学にいらっしゃる方には必ずこう言います。
『手間がかかるのが嫌だったら、ガスの窯になさい。』
いじわるで言っているのではないのです。実際、キツイです。
まぁ、私達はすっかり慣れてしまいましたけどね、、、。

もっと言うと、『年に数回の個展やるだけだったら、レンタルでいい。』
もっともっと言うと、『自分が作ったものを、世の中の人々が必要としているのかどうか。』これは自分への疑問として、いつも自問自答している事ですが、、、。
考えなくても良い事かもしれないけど、昨今の環境問題報道で気になるのです。私達がガラスを溶かすのに使っているのは限られた地球の資源。排煙、オゾン層の事。大量のガラスゴミ。
自分達の欲望の為には、仕方がないのか?どうしたらいいのか?
でも低燃費の窯を見つけたのは、せめてもの救いですね。
あとは、ゴミをいかに少なくするか?これが私達の一番の課題です。
そして燃料をできる限り有効に使う。でも、質より量じゃダメ。
あー難しいね。工房を持つと言う事は、大変なことなのです。

ちなみに生活が苦しいのは全く平気。だって好きな仕事だから。
売れなかったガラスも、最近はぼちぼち売れるようになってきました。
決して安くはない私達のガラスを、お金を払って買って下さる。
目の当たりにすると、本当に感動し、有り難く思います。
この気持ち死ぬまで、慣れたり忘れたりしたくないなあ。


13: 誤解、理解、、、そして感謝
近所に住んでいるのに、私達が役場職員で工房と家を税金で建ててもらってなおかつ、税金でお給料までもらって悠々自適な生活を送っていると、誤解していた人もありました。
賀茂村の人達には、理解されていると私達は思い込んでいました。そうでない人もいるんです。
でも、そういう人達にも理解してもらって初めて、賀茂村の住人になれるような気がします。村中の人達が、私達に注目しているのです。謙虚にがんばらないとね。

そんな中でも、初めから仲間に入れてくれたのは青年部のみんな。
魅力的な彼等なのに、田舎住まいなのでお嫁さん候補と出会えず、独身。
幸せになって欲しいなあ。(興味のある方、メールくださいね。)

そんなみんなが、入籍した私達の為にパーティーを開いてくれました。
役場で可愛がってくれている皆さんと、賀茂村の友達、35人ぐらいが夕日の沈む頃、黄金崎の村営レストランで祝ってくれました。
(私達にはお金はないけど、この人達が財産なんだなあ)と、目の前にしてしみじみ思いました。そして、やっぱり賀茂村に来て良かったと思うのです。
好きな土地なら、どんな事があっても暮らしていける。そう思うのです。

パーティーから1年後、長男が誕生しました。その2ヶ月後、工房建設に大変力になって下さった役場の鈴木課長が癌で突然亡くなりました。
まだ若かったけど、賀茂村での父親のような存在でした。最後まで私達を心配していてくれて、仕事を持ってきてくれました。
出会えて本当に良かった。感謝の気持ちでいっぱいでした。
子供の顔を見せられなかったけど、この子と五木田と3人で共に賀茂村にしっかり根付くのが課長への、そして友人みんなへの恩返しだと思っています。

14: ガラス文化の里づくり
私達の定住の過程がモデルケースとなって、その後毎年1組づつ移り住み、私達と同じ灯油の窯を作ったり、アレンジして工房を作りました。
今では全部で3軒の吹きガラス工房があります。すごい事です。

これから『ガラス文化の里づくり事業』がどうなっていくのか。誰にもわかりません。

来た当初は(村の為にがんばるぞー!)なんて意気込んでいたけど、実際村の人々には迷惑な話。ガラス原料で村中が潤っていた時とはもう違うのです。
行政が勝手に『ガラス文化の里』なんてうたっていても、それで自分達の生活が向上しなければ、感心がなくなるのです。
このままそっとしておいて欲しい。それが本音なのではないでしょうか?

『あそこへ行けばわかるかも!』『あそこになら良いものがあるかも。』そういうときに思い出してもらって、来てもらえる。
もらった野菜の代わりに、私達のガラスをもらってもらう。
そんな関係を村の人達と深めていけたらなあ、、、。と思うのです。
賀茂村に来て5年。初めは『お前っちのガラスは、高いからなあ。』と触ってももらえなかった私達のガラスですが、少しずつ理解してもらえるようになってきて、内祝いやお返しに使っていただいたりするようになりました。
当初は考えられなかった事です。今の時代、ビールを買えば洒落たグラスが幾らだって『タダ』で付いて来るんですから。
それなのに1000円、2000円払って買ってくださるんですから。
それもわざわざ村の奥までやって来て。泣けてきそうです。

15: 未来に向かって
結局、村からは2700万円!借金しました。(よく貸してくれたなあ。)
借りるのは簡単だったけど、年2回の借金返済は実にキビシイです。
子供もできた私たちには、思った以上に出費が増えて(次回払えるかしら?)と、いつもヒヤヒヤ、、、
でも私達はずっと、この賀茂村でガラスを吹き続けていく事でしょう。
(借金は20年先まで返済しなくてはいけないですから、、、)

海と山。川にはカワセミや蛍が舞い、鮎やアマゴが泳ぎ、豊富な山菜、
きつねやたぬき、野うさぎ、シカが遊び、そして暖かい人々、、、。
私達の大切な、そして大好きな賀茂村。ずっとこのままでいて欲しいです。

2001,7,5 五木田 淳子


16: 追記
2006年、賀茂村は隣町と合併して『西伊豆町』となりました。
それと共に、ガラス作家への定住促進補助金枠はなくなりました。
現在町ではこのような誘致を行っておりませんので、お問い合わせなどなさらないように御注意下さい。

もちろん、お金には困っていないけど、西伊豆町に住みたいと言う方は大歓迎です。

2007,3,28 


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